2013年2月28日木曜日

医者の権威

今日、退院する人の担当者会へ。その人は海から近く、木造で冬はすきま風がきつい、薪をくべて吾衛門風呂を沸かして入っている家。無論、今まで住んできた場所であり、寝たきりの旦那さんが、8年前の台風の浸水で、畳が浮いて、二人して助けを待ったり、親戚一同集まって、毎年餅つきをしてきたり、色んなものが詰まった家に住んでいる。トラコーマでほとんど見えず、耳も補聴器をつけてなんとか。それでも生活してこれたのは、その人の人柄による周りの支えと、なにより何十年も積み重ねた生活の慣れが成せる事だと僕はみている。去年の年末に手首を骨折した時は、出来る限りで支えた。ただ、心臓が弱く、月に一回の受診で、いくらその人は元気だとしても、検査の数値でひっかかり、入退院を繰り返してきた。今回もそう。でも、今回の入院で担当の医者がケアマネさんに、在宅は無理だ。独りで生活出来るレベルではないと言い切った。挙げ句、意見書は書かず、今まで支えてきた訪問看護が打ちきりになった。それも、担当者会が終わったあと、病院の看護師がケアマネさんに言ったらしい。その連絡を聞いてすぐ、その人の家に走った。これからの事について。ある程度の道は話せた。ただ、頭の片隅に気になっていた事を聞いた。家に居りたいということと、主治医の事について。その人は主治医の名前を知らなかった。その人にとって、名前も覚えていないような人が、一月に何時間も待たせて、たったなん十分の診察と、検査のデータだけで、在宅レベルではないと言い切った。未だこんなアホな医者がいるのかと。その人の何を知って言っている?久々にクソだなという感情が。ケアマネさんと話して、もういい、うちらで、出来る限りの支えをしようということになった。力有るものは、つかい方をしっかり考える事をしないと、人不幸もんになりかねない。自分の居場所を、他人から奪われなければ、気付かないのか?今までの付き合いによる、独りよがった見方かもしれない。だけどいつも、簡単に人に言い切れる事に、不確かな感覚がつきまとう。